こんにちは、たこすです。
本日は、メガバンク行員なら誰でも知っている、再編の歴史についてです。
最初のメガバンクはどこか、なぜ三菱東京UFJから東京が消えたのか、みずほはなぜみずほなのか、各社の方針と特色についてお話ししたいと思います。
バブル崩壊が再編の引き金に
1990年、バブルが崩壊し90年代後半には証券会社が相次いで破綻し、企業あての貸し出しの不良債権化も進行しており、銀行の経営もかなり厳しい状況でした。
この期間に政府から大手銀行に注入された公的資金は9.3兆円です。
最初のメガバンクはみずほ
再編は2000年から始まりました。一番最初に大型の合併を実施したのは、みずほでした。第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行が3行対等の精神で設立されました。
合併するときは通常、実質的トップを決めるのですが、みずほは名前を全く新しくすることでどの銀行が一番偉いのかを決めることなく合併してしまいました。
「みずほ(瑞穂)」は、「みずみずしい稲の穂」を表す言葉であり、「みずほ(瑞穂)の国」は、実り豊かな国を意味する日本国の美称として用いられています
みずほフィナンシャルグループ ホームページより
3行が一つになって何故か2行に
みずほの失敗とも言われていますが、みずほHDはみずほ銀行とみずほコーポレート銀行になってしまいました。
これは、旧3行の力関係が定まらないまま合併した結果、戦略が折り合わず日本興業銀行のメンバーが中心となったみずほコーポレート銀行と第一勧業銀行、富士銀行のメンバーが中心となったみずほ銀行に分裂してしまったのです。
2バンク制と他行にはないビジネスモデルを目指していましたが実際はシステムの二重管理などでメリットが訴求できず、結局は2013年にやっと1バンク制になりました。
早くから体制の整っていた三井住友
三井住友は2001年にさくら銀行と住友銀行が合併して以降大きな再編を実施してません。一貫して住友の営業力の強さや体育会系のガバナンスが強固に維持されており、半沢直樹のような旧行でのしがらみもほとんどありません。
住友グループの圧倒的なガバナンス力で内部での抗争がないことも彼らの強さの秘訣かもしれません。
西の住友、東の富士
昔は、営業力の強い銀行が東西に分かれていました。関西で猛威をふるっていた住友銀行と関東で猛威をふるっていた富士銀行です。今でも、財務担当のお客さんからは、この2行のえげつない営業の話を面白おかしく話してくれたりします。
2つのフィナンシャルグループがひとつになった三菱UFJ
三菱UFJは、唯一2つの大きなフィナンシャルグループが合併したメガバンクです。
三菱銀行を筆頭とした東京三菱銀行と、三和銀行を筆頭とするUFJ銀行の合併です。
旧三菱側の勢力が強く、力関係がはっきりしていたので、みずほほど内部の出身行別の争いはなかったようです。
三和銀行は地銀からランクアップした
三和銀行は三十四銀行、山口銀行、鴻池銀行が合併してできた銀行です。もともとは地銀だったのですが、業容拡大に伴い、都銀に唯一ランクアップした経緯を持ちます。
ただし、地銀が出発点であったこともあり、都銀と比べると優秀な学生の確保が難しく、最終的には三菱に吸収されていきました。
三菱東京UFJから東京が消えるのは2005年から決まっていた
2018年に、三菱東京UFJ銀行が三菱UFJ銀行に社名変更になりました。
これは実は、昔から決まっていたという説があります。もともと2005年にできた金融持株会社の名前は三菱UFJフィナンシャルグループで、東京の名前はなかったんです。
ただし、東京銀行、いわゆるバンクオブトーキョーの名前は世界的にとても有名で、日本で最も海外、外為取引に注力していた銀行です。
外国為替の世界でバンクオブトーキョーを知らない人はいないレベルで、三菱UFJが東京の名前を消すのに13年もかかった理由はこのためでしょう。
東京銀行のファンの一人であるデヴィ夫人は猛反発
この社名変更にデヴィ夫人も自身のブログにて猛反発してます。デヴィ夫人はあまり個別企業を名指しすることはないのですが、東京銀行を知る人間からするととてもインパクトのあるイベントだったと言えるでしょう。